質問してくることがほとんどなくて・・・。
言われたことをするだけで・・・。
すぐにどうしたらいいかと指示を求めてくる・・・。
こんなことを聞いたら、あなたならどう考えますか?
もっと質問力を上げてほしいが、自分で考える力がないっていうか・・・。考えないというか・・・。そういう教育を受けてこなかったのか・・・。など聞きます。
質問できるということは、「なぜ?」と思えないと質問は出てきません。
「なぜ?」「どうして?」「どうやって?」「誰が?」「どこで?」「いつ?」「何を?」などこれら『問い』を持たない、持てないようにしてきた人も少なくないと思います。
小さいころ「なんで?」と訊いても「なんでも!」とか「そんなこと訊かないの!」と言われたり、学校では質問することが恥ずかしかったり、目立つことが怖かったり、面倒だったり。
興味を持つと、それを認めてくれない大人が近くにいると辛くなるから自分を抑え込んだり、押し殺したり、我慢したり、なかったことにしたり。
そうしているうちに、与えられることをこなすことで認められることを知り、与えられることを待つようになる。とはいえ、与えられることをこなせなかった時は、評価されず、場合によっては非難され、傷つくくらいなら与えられないようにした方が良いと自分の殻に入っていく。
『問い』があること自体は良いも悪いもないですが、その『問い』に対して望む結果になるために考えるのか、望ましくない結果にならないために考えるのかは大きく違います。
望ましくない結果にならないために考えるということは、望ましくない結果を考えているということなので、結果的に望ましくない結果が現れます。そうなると、考えるだけ無駄だと思ったり、面倒だと思い始めます。そして諦め始め、「どうせ・・・」と変化していきます。
そのプログラムをつくり上げてしまえば、毎回望ましくない結果になるのですから、目をそむけたくなります。何も起こらない、何もしないことが安全になっていきます。
質問力を上げてほしいのであれば
①伝える側がその物事に対して何度でも興味を持って真剣に語ること
②質問することされることは、学びたい、知りたい、理解したいという証拠であると知ること
③質問できる安全、安心の場づくりをすること
①については、訊きたかったら訊いてくるのが普通だろうなどと思う人もいますが、伝え続けなければ興味は持てないです。「この人がこんなに語るにはそれだけのものがあるのだろう」という期待値が必要です。
②については、質問することは、わかっていない、聴いていないという前提でいるのでそうなると
③の安全、安心の場ではなくなり、見下される、馬鹿にされる場となります。
問いは、考えるということを引き起こし、気づきを引出し、行動が変化し、成長へと繋がります。
そして私たちは、理解と納得がないと効果的には動きません。
脅されて動くときは、動かないと痛い目にあうという理解と身を守るためには仕方ないという納得で動きますが、健康的ではありませんから長くは続きません。当然、能動的には動きません。
これらについてあなたならどのように考えますか?
愛ある問いひとつ
そこから質問の力は動き始めます。