家族とか近い存在ほど、心地よく安心して接していたいはずなのに、その存在が疎ましくなったり、傷つけたり、傷ついたり。
「相手が死ぬまで終わりません」という言葉を聴くことがありますが、それは
「相手が死んでも終わりません」
なぜならば
【役割を選んでいるのは誰ですか?】
私たちは「役」を「割って」生きています。
その「役」はその時その時で変わることもありますが、変わらないこともあります。
その「役」には、どのような意味も持たせることができますが、一つの意味しか持たせないこともできます。
子どもだから・・・
親だから・・・
妻だから・・・
夫だから・・・
経営者だから・・・
友達だから・・・
「だから」何なのでしょうか?
「だから」のあとの意味付けは誰がしたのでしょうか?
親に言われたから・・・
子どもの手前・・・
世間的に・・・
そしてそれを受け入れたのは誰ですか?
【それは執着ではないですか?】
役割を受け入れざるを得なかった。
誰もする人がいないので自分がするしかなかった。
知らない顔をすることの方が辛かった。
いずれにしても受け入れたのです。最初は良かれと思い・・・。
しかし自分がやるしかないと理解はしていても、納得はしていないため、沸々と湧き出てくる感情。
この感情を自分にぶつけるか、相手にぶつけるか、役割を受け入れなかった人にぶつけるか、世間のあり方にぶつけるか・・・。
いずれにしても自分への加害です。
それがいつしか「~なければならない」「~するべきだ」に変わり、どんどん自分に制限をかけていく。
そして動けなくなる心。
相手が死ぬまで終わりません。
という言葉を聴くことがありますが、それは
相手が死んでも終わりません。
なぜならば
身体が自由になっても、心に一度入力した執着である恐怖心は、上書きしない限り一生続くからです。
あの時あの人がいなければ・・・
あの時あの人があの一言を言わなければ・・・
あの時あの場所にいなければ・・・
いつまでも繰り返されるこの問答。
【自分が望む人生はどのようなものですか?】
出来事に意味はありません。
意味付けするのは自分です。
目の前の出来事をどのように意味付けるするかは、全て自分次第です。
自分は何を大切に生きているのか?
自分は何を望んで生きているのか?
望ましくない言動とともに生きているのであれば、それは自分への裏切りです。
何をしていても、何をしていなくても、自分の「価値観」に沿って行動していることが明確であれば、恐怖心は愛に上書きされ、私たちは楽に生きていけます。
自分の価値観はなんですか?
価値観に沿った言動になっていますか?
自分の価値観を大切にすることから全ては始まります。
価値観を知りたい方へ ↓